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【街歩きと横浜史】栗田尚弥『米軍基地と神奈川』(有隣新書、2011年)
横浜関連本だとどうしても敬遠されがちな「横浜の戦後」について切り込まれている本です。
横浜が米軍の日本上陸と占領政策の拠点となったことから中区の大半を摂取地として持っていかれ、帝国海軍の街・横須賀が米海軍の街となり、帝国陸軍の街・相模原が米陸軍の街となるといった具合に、横浜を中心とした県下全域の大激変が綴られます。
国内他地区とのギャップということでは、GHQによる接収が原因となり戦後復興が立ち遅れたことから、高度成長にも乗り遅れることとなった部分が特徴的です(接収地以外での復興のみが進みます)。接収の対象はほぼ市全域、中でも中区は中心部の大半を接収されますが、その規模はなんと「日本全国の接収地の」62%だったそうです(P196より)。
もちろんこれだけの話で済む問題ではなく、治安の問題、中でも米兵の不祥事(強盗、強姦、傷害の激増)を原因とした問題への対処も迫られることとなりました。
連日連夜発見された混血児の嬰児の遺体は800体を超えるまでになったなどという、凄惨でグロい話しにも触れられていますが(本文P175)、ここにおいて「文明開化の入り口となった、かつての横浜」は完全に過去の都市になってしまったわけです。
しかし、戦後も10年~15年を経過すると接収解除エリアも増えていき(一覧表、P84~88)、混乱期もやがて終わりを迎えます。いわゆる「第二の開国」といっていい時期の到来を迎えるのですが、鎌倉や湘南海岸と並び、横浜は米軍経由のアメリカ文化の流入する拠点となりました。
ここに、「今につながる横浜」のはじまりがあるんですね。
米軍経由の華やかさが横浜、横須賀、鎌倉、湘南の戦後を作り、やがてそこで作られた「戦後」が日米友好の足掛かりの一端ともなっていくという話しも同時進行で進み、終戦直後から高度成長期を経て昭和末期へと進むにつれ、変容していく(時間の経過とともに世代交代が進み、縮小していく)「反基地運動」の様子についても触れられます。
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