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【横浜DeNAベイスターズ/祝】プロ野球・横浜DeNAベイスターズ、セ・パ交流戦初優勝!
祝・交流戦初優勝!
2023年6月20日、2005年からスタートしたセ・パ交流戦(2023年交流戦公式サイト)で、横浜DeNAベイスターズ(公式サイト)が初優勝を決めました(楽天イーグルスの勝敗待ちの状態から、21日に確定)。
公式サイトでも、そのことはもちろんニュースとして報じられています(日本生命セ・パ交流戦2023 優勝)。
“DeNA”前夜にあたる横浜ベイスターズ時代からの持ち越しとなった、実に18年越しの悲願が達成された今回の交流戦。欲を言えば最後は本拠地・横浜スタジアムで勝って決めてほしかったところではありますが、最終戦の対戦相手となった北海道日本ハムファイターズにも、最終戦で”ギリギリ優勝がかかっていた”楽天イーグルス相手に大勝したヤクルトスワローズ同様、プロとしての意地があったのでしょう。
ということで、最後の最後まで全てがうまいこと行ったわけではありませんでしたが、祝・初優勝!ということで、ひとまずここでNPBの公式サイトから、まずは過去の交流戦の戦績を振り返ってみることとします。
初優勝までの軌跡 -横浜ベイスターズ時代-
“暗黒”ベイスターズ
年度 | 監督(代行) | 順位(シーズン) |
2006年 | 牛島和彦 | 10位(6位) |
2007年 | 大矢明彦 | 3位(4位) |
2008年 | 大矢明彦 | 12位(6位) |
2009年 | 大矢明彦(田代富雄) | 12位(6位) |
2010年 | 尾花高夫 | 12位(6位) |
2011年 | 尾花高夫 | 11位(6位) |
“日本一前夜”である96年・97年の二年間を担った大矢政権の”第二次”一年目、07年の戦績のみが眩しく光っていますが、それ以外はちょっと…、という。交流戦が始まった06年からDeNAベイスターズ誕生前夜の11年シーズンまでの交流戦・シーズン成績です。
横浜ベイスターズ末期の”暗黒”ぶりを象徴するような、パッと見ただけでも”これより下はなさそうだ”といった感じの結果となっていますが、97年に始まる”確変期”がわずか数年足らずで終わる(~01年)と雲行きが年々怪しくなって行き、最終的には予想(=ファン的な覚悟)をはるかに下回るところにまで落ち込んでしまったという、およそそんな時期でしたね。
暗黒期の観戦事情
余談ですが、この時代の観戦事情としては「その日の夕方以降に気が向いたから、なんとなくハマスタへ行ってみた」という気分で球場に向かったとしても、それでも十分いい席(内野指定席の前方や、ネット裏等)で野球観戦が出来たりしました。
忌憚なく言えば、「観たいですか?」というような時代でしたからね 笑。
「コミコミで数千円程度出して、軽く飲み食べしながらプロの選手のプレイを間近で見つつ、時に大声で応援したりヤジを飛ばしたりといった感じで、およそプロ野球観戦気分を味わいたい」という位の目的であればもってこいの環境がそこにあったという、そんな時代ではあったのですが、そういうところだけを切り取ってみれば、それはそれで、ただひたすらに悪いだけの時代ではなかったのかもしれません(?)。
現状だと、それなりに前もって予定に入れておかないと、いい席での観戦は難しいですからね。
もちろん、そもそもひいきチームの試合を見に行くにもかかわらず「なんとなく気が向いたから、球場の雰囲気や野球観戦気分を味わいに行きたいだけ」というような動機自体ががおかしいといえばおかしいのではないかと思いますし(「推しの選手の活躍が見たい!」「勝つところが見たい!」「勝ってほしい」となるのが自然ですね)、もう一度この時代に戻った上で当時のベイスターズの試合を球場で見てみたいのかと問われれば、もちろんそれはまた別の話しになってきたりはするのですが 笑、ともあれ、球場設備、ファンサ、さらにはチーム状態に至るまで、ほぼ何から何まで”前時代”だったんですよね。
“暗黒”チームと最強打者
ここで、後に躍進を遂げたDeNAベイスターズにとって、ドラマの一つとなる要素として。
06年から10年までの間、当時の”暗黒”ベイスターズの主力選手の一人だったのが、その才能を開眼させ、プロ野球選手としての全盛期に向かっていた00年ドラフト1位入団・内川聖一選手(NPB公式サイト)です。
ベイスターズ時代の08年には右打者で歴代最高となる打率(.3780)を記録し(NPB公式サイト)、ホークス移籍後にも首位打者を獲得する(史上二人目の両リーグ首位打者)など、やがてNPB史上でも有数の名選手となっていくのですが、しかし、自身が首位打者を獲得し、セリーグ最多安打と最高出塁率を記録した正にその年(08年)、チームは暗黒の真っ只中にいました。
当記事では交流戦が始まった06年を区切りとしていますが、チーム基準で見た場合には、暗黒は02年から始まっています。つまり、かつて日本一になったチームが勝てなくなって既に4年経っていたということになるのですが、余談として、08年の内川選手の打率は前記した通り.3780、これに対して08年のチームの勝率は.338です。
内川選手の打率>チームの勝率という、どこか質の悪い冗談みたいなチーム状態だったということで、チームに勝つことを期待するのであれば、単に内川選手にヒットを期待した方が気分良く野球を見れる、結果勝ち負けではなく”内川の打席”(似たような理屈で、07年、08年に二年連続本塁打王となった”村田の打席”)がメインの見所になるという、”年中消化試合”みたいなシーズンの繰り返し期だったんですね。
ホエールズ、ベイスターズには”勝率3割台以下”の年が16シーズンありますが、その16シーズンの中でもさらに”良くない方”に寄っているのが”.338″という勝率です(参考:NPB公式サイト “横浜DeNAベイスターズ年度別成績“)。
また、”勝率3割台以下”の内訳ですが、なんと勝率2割台の年も2回ほどあって、チーム史上最低勝率(.238)を記録した1955年はシーズン31勝99敗、首位とのゲーム差は61.5ゲームあったようです。
下を見ればまだまだ下があったんだ(.338>.238)と捉えればホッとすることも出来るでしょうが、それにしてもその記録に相当近いところに迫っていたのだ(正直、94敗も99敗も大して変わらないのではないか)と捉えれば暗澹たる気持ちに拍車がかかるといったところですね。
チーム史上最低記録更新とはならなかったものの、それでも歴代でも最低クラスの”暗黒”期、NPB史上最強クラスのバッターが主力としてチームに在籍していたという、ファン的にもなんともやるせない、皮肉な取り合わせになっていました。
内川選手は翌09年にはWBC日本代表として、後に巨人に移籍することになる村田修一選手と共に戦い、中心選手として世界一に貢献します。その一方で、09年のベイスターズはシーズン開始後ほどなく大矢監督が休養し、以降は田代監督代行が指揮を執って戦うこととなりました。
夜明け前
この当時を知るファンにとっては「ああ、そういえばありましたね、そんな時期が」というような、今昔の感に堪えない記憶としてよみがえって来そうな所ではありますが 笑、08年94敗、09年93敗、10年95敗、首位とのゲーム差はそれぞれ36.5、42.5、32.0という、僅差ではなくぶっちぎりの最下位、近年の暗黒期の中でも最も闇が深かった時代でした。
その分、その気持ちを考えると察するに余りあるものが出てきてしまうという、ネット上でも、当時の内川選手とチーム状態のギャップが有名な”内川コピペ”(pixiv百科事典 “内川コピペ“)を生み出したりもしたのですが、その内川選手は2010年限りでベイスターズからホークスへとFA移籍、移籍初年である翌11年に首位打者を獲得すると2年目の12年にはパリーグ最多安打を記録するなど、”最強ホークス”にあって水を得た魚の如く、全盛期に突入していきます。
暗黒真っ只中のチームから数少ない希望が消え、いよいよわかりやすい形で明暗がはっきりし始めた状態で迎えた、2010年、2011年シーズン。もちろん、当時のファンは知る由もありませんが、ここからの数年間がいい意味でのベイスターズにとっての分水嶺となっていくんですね。
11年のシーズンオフには”もう一人の打の中心選手”だった村田修一選手が巨人へFA移籍し、さらにファンの気持ちは荒んでいく(?)のですが、この年、ファンにとっては驚天動地の大事件となる球団買収騒動が持ち上がります。
今振り返ると、内川選手のFA移籍から村田選手のFA移籍、さらには球団買収まで、全てが割とあっという間の出来事だったように感じなくもありませんが、”騒動”はそのまま現実となり、”横浜ベイスターズ”改め”横浜DeNAベイスターズ”誕生となります(参考:DeNAによる球団買収効果)。
“夜明け前が一番暗い”(The darkest hour is just before the dawn)とは、17世紀イギリスの聖職者・作家であるトーマス・フラー(Thomas Fuller)の名言ですが、これ以上はない位に球団が沈んでいた11年のシーズンオフ。
結果論としては”夜明け前”となった時期、ファンの気持ちはまだまだ暗黒の真っ只中にありました。
初優勝までの軌跡 -横浜DeNAベイスターズ-
新生・DeNAベイスターズの躍進
年度 | 監督 | 順位(シーズン) |
2012年 | 中畑清 | 10位(6位) |
2013年 | 中畑清 | 12位(5位) |
2014年 | 中畑清 | 5位(5位) |
2015年 | 中畑清 | 12位(6位) |
2016年 | アレックス・ラミレス | 9位(3位) |
2017年 | アレックス・ラミレス | 7位(3位) |
2018年 | アレックス・ラミレス | 8位(4位) |
2019年 | アレックス・ラミレス | 4位(2位) |
2020年 | アレックス・ラミレス | 交流戦中止(4位) |
2021年 | 三浦大輔 | 3位(6位) |
2022年 | 三浦大輔 | 6位(2位) |
2023年 | 三浦大輔 | 優勝(?) |
DeNA以降の戦績についての詳細・私見は、また機会があれば別記事にまとめたいと思いますが、以下は概観について。
中畑政権の4年間=DeNA最初の4年間って、失礼ながら戦績的には”前夜”とさしてかわらないのですが、それでもこの頃からチームや主力選手の根本的なところが変わり始め、やがて”弱いチーム”にファンが夢を見れるようになっていきます。
一つには”DeNA後”のチームで、後のチームを担う若手が台頭したことが挙げられます。
“暗黒時代”末期の入団組としては、”キヨシ政権”最大の遺産ともいえる筒香嘉智選手(09年ドラフト1位、地元横浜高校から入団)をはじめ、後に中継ぎ投手として活躍する国吉佑樹投手(09年育成ドラフト1位)、桑原将志選手(10年ドラフト4位)などが主なところとして挙げられますが、”DeNAベイスターズ一期生”としては三嶋一輝投手(12年ドラフト2位)、井納翔一投手(12年ドラフト3位)、ラミレス政権時代に首位打者を獲得し、やがて横浜を代表する打者となる宮﨑敏郎選手(12年ドラフト6位)が入団するなど、才能が才能として育ち始めた上で、ドラフト戦略的にも”当たり”が目立つようになりました。
以降は遅咲きながら今年23年に大ブレイクした関根大気選手(13年ドラフト5位)、ラミレス政権時代には”左の中継ぎ”として大活躍した、現・中日ドラゴンズ所属の砂田毅樹投手(13年育成1位)、14年のドラフトに至っては、後にチームの主力となる三選手、山崎康晃投手(14年1位)、石田健大投手(14年2位)、倉本寿彦選手(14年3位)が入団するなど、期待を担う選手が期待に沿って成長してくれることが増えていきます。
結果論からの話しとなる部分も多々出て来るところなのでしょうが、10年代の前半は、成績云々というよりは、チームの雰囲気が年々変わっていくことを実感できる時期となりました。
“それ以前”からの選手でも、やがてDeNAベイスターズの主力選手となる現・読売巨人軍の梶谷隆幸選手(06年高校生ドラフト3位)がブレイクしたのも、”キヨシ政権”時代の話しです。
“キヨシ”から”ラミちゃん”へ
実際、「DeNAによる球団買収前夜、どっぷり暗黒につかりきって、およそプロのアスリート集団とは思えないような常識がまかり通っていた当時のベイスターズを、いやしくも野球のプロとして相応しい、闘える集団に変えていった」といったことをたたえる記事や動画が山ほど流通していた記憶もありますが、ファン目線で見ていてもそのことがはっきり伝わってくるような過渡期へ突入します。
これはひとえに中畑監督の人柄や”熱血”指導スタイルに寄ってくるところが大きいのですが、「ただ弱いだけのチームが、これから強くなっていくチームに変わっていく空気が出来て来た」という状態ですね。
このことが明確な結果となって表れたのが、ラミレス政権一年目の2016年です。
この年初めてベイスターズがCS=クライマックスシリーズに出場するのですが、ラミレス監督の手腕もさることながら、前任者である”キヨシ”政権の功績も大きく寄与したところだ、とは、当時リアルタイムでよく目にしたファン評価でした。
そして迎えた2017年。この年二年連続のCS出場を決めると、3位からの下克上を決め、”近年最強”と謳われた福岡ソフトバンクホークス相手の日本シリーズへと進出します。第六戦までもつれたシリーズ、最終的には内川選手に負けたという試合になったのですが、”かつて”を知るファンにとってはたまらない試合でもありました。
常勝チームへ
「かつてただひたすら弱かっただけのチームが、日本一をかけてここまでの試合をやれるようになった」というシリーズ後、交流戦にしてもシーズンにしても”まあ見れる”成績が当たり前に取れるようになって迎えたのが今年2023年シーズン。
そうなると目指すものはただ一つということで、”横浜頂戦“としてリーグ優勝・日本一が具体的な目標に掲げられ、シーズンを戦うこととなりました。
指揮を執るのは、日本一になった98年にはローテーションの一角を担い、その後チームの暗黒時代にはエースとして投げ抜いた、”横浜生え抜き”である三浦大輔監督です。
2023年交流戦
大激戦の末、初の栄冠
23年の交流戦は、最終的に4チームが勝率一位に並ぶという、史上まれにみる大混戦となりました。
ベイスターズは勝率5割のラインを維持したまま、そこから幾つの貯金(勝ち数ー負け数)が出来るかという戦い方に終始していましたが、とにかく最終順位で上位6チームに入っているチーム(ベイスターズの他、ソフトバンク、巨人、オリックス、日ハム、楽天)が常に団子状態で、どこまで日程が進んでも優劣差がつかず、勝敗差が一向に開きません。
今年は一体どうなっているんだろうというような戦いが、とうとう最後の最後まで続くことになります(参考:日刊スポーツ “【動くグラフ】交流戦12球団の貯金推移“)。
最終的には、11勝7敗(ベイスターズにとっての交流戦の”11勝”は、18試合制となった15年以降最多勝利数です)、貯金を”4″として交流戦を終えました。
実質優勝が決まったのは日本ハムファイターズ相手に一点差で敗れた最終戦、それが確定したのが優勝の可能性を残していた楽天イーグルスの最終戦後(ヤクルトスワローズ、中日ドラゴンズ相手に連敗して優勝の可能性消滅)のことです。
ちなみに”11勝7敗”ラインには、他ソフトバンク、巨人、オリックスも並んでいますが、”総得点を攻撃イニングの総数で割った数字“から、”総失点を守備イニングの総数で割った数字“を引き算して求めるという”得失点率差”で優劣を決めることとなり、結果最上位に来たベイスターズが優勝となりました(参考:時事通信 “得失点率差“)。
今年23年の交流戦、ベイスターズは最後まで勝率5割を切ることなく戦い切りましたが、これは昨年までの成績(通算勝率4割1分4厘。157勝222敗11分け)と比較すると、突出した好成績です。優勝に拘らないのであればこの時点でまずまずといったところではあったのですが、そこに史上まれにみる大混戦が重なってきたということで、結果についてはツキも多分に作用した、要はチームが”持っていた”ということなのかもしれません。
ベイスターズファンにとっては”終わり良ければ総て良し”といった交流戦にはなりましたが、最後の最後まで気が抜けない戦いでもありました。
参考:日刊スポーツ “【DeNA】交流戦初V 昨季まで通算勝率12球団最低と苦手も今季は5球団に勝ち越し“
バウアー効果
ところで、23年シーズンのベイスターズには、単にチームのみならず、NPB史上でも最大クラスのビッグニュースが舞い込むこととなりました。
サイ・ヤング賞(MLBのシーズン最優秀投手に与えられる賞です)受賞投手、いわゆる”現役バリバリ”のメジャーリーガーの中でも最上層の選手にあたる投手、トレバー・バウアー投手の加入ですね。
バウアー投手についてはまた機会があれば何らかの話題を改めて記事化したい、とは考えていますが、そのバウアー投手が交流戦では11勝のうち3勝を挙げています。
西武戦では髙橋光成投手、オリックス戦では山下舜平大投手、日ハム戦では加藤貴之投手と、各チームのエース級と投げ合っての3連勝はとてつもなく大きい3勝です。
仮にこの三試合を全て落としていたと単純に判断すれば8勝10敗となって、今年もほぼ例年通りの成績だったということになってしまうため、極論すれば”バウアーが加入したから交流戦優勝できた”要素もゼロではなくなって来るんですよね。
もちろん、いい投手が一人いたからといってそれだけで上に行けるほどリーグ戦は単純ではありませんが、チームとしてのレベルが上がってきたときに、そのいい状態をさらに上方修正するに足るだけの要因がいくつかあった、そのうちの一つとして間違いなく上がってくるのが”バウアー効果”だろうという程度の理由には、間違いなくなっているでしょう。
交流戦が終わってペナント再開、もうまもなくオールスターもあって、その後には後半戦へと続いていきますが、ベイスターズにはこれからも現在の好調を期待したいところです。
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