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勉強すること自体に非があるわけではないですが
参考:AERAdot. “小学英語で「英語嫌い」が増えた? 700単語を4年間で詰め込む「必修化」の実態“
例えば義務教育期間を両親の仕事の都合等々で海外で過ごしている小学生・中学生は、滞在期間如何では、滞在している国の言葉(もしくは公用語)と日本語を同時に取得するのが良くある話ではないでしょうか。
なので、単純にやれるかやれないかで語るのであれば、そこは普通にやってやれないこともないのでしょう。
やれるといえばやれる話しではあると思います。
ただし”小学生にとっての語学”ということでは、そもそも日本語の文章読解力/作文能力もまだまだこれから養成していかないとまずい時期に当たっているので、とりたててその必要もないのに(文科省の関連資料を見る分に、必要に迫られてというよりは、理想を先行させた上で現実を引っ張り上げていこうという類の方針ですね)、”母国語以外の言語の形だけの知識(それも小学生一般にとっては恐らく結構な分量)”を一律にぶち込んでいこうとする方針自体がどうなんだろう、という疑問が生じかねないところでもあります。
国際化だグローバルだという点にしても、AI使った自動翻訳がガンガン精度を上げている昨今、むしろ国が肝煎りとなったこういう方針自体が半歩遅れのものではないのかな、なんて思えて来たりしないこともありません。
そもそも、”なぜ、今?””ここまでして?”が本当に解決された上で進められているのかなと。
見るところを見たらひところ盛んに(?)言われていた、「国として、将来的に日本語捨てるつもりでもあるんですか?」という見方が分からんでもない、制度遂行サイドにその意思がなかったとしても、結局はズルズルとそっちに引っ張られて行っちゃうんじゃないの? って懸念が必ずしも的外れじゃないように思えて来たりもします。
かといって、早い時期から英語を勉強すること自体がまずいんだって話では、もちろんありません。
“コミュニケーション手段としての英語”を学ぶ小学生なんて、現時点でも見るところを見たらいくらでもいるんでしょうが、注意を要するのは、そういう”課外授業的な性格が色濃い勉強”って、国がバックアップして必修だなんだという前に、まず第一に本人のやる気が必須になるって点です。
中学後半~高校英語あたりでよく見かける例文、
“You can take a horse to water, but you can’t make it drink.”
が示唆するところ、そのまんまですね。
ちなみに和訳は「馬を水飲み場に連れて行くことは出来ても、馬に水を飲ませることは出来ない」です。
“好きなことを通じた、何かを学ぶ姿勢”を小さい頃に身に付けることが出来れば、ある意味それだけでも一生もののスキルになったりするものですが、語学一般にそういうとっつきやすさがあるかといえば結構微妙なところじゃないかと思いますし、こと”小学英語”については「皆が皆、一律に興味を持って学ぶべきだ」とするには中途半端な”オマケ感”が否めない現状だと、恐らくは少々(?)高いハードルになってしまいます。
確かに提唱しているところの理想は見方によっては眩かったりもしますが、肝心かなめの大前提として、そもそも万人にとって時間は有限なんだって問題もあります。
この”理想”が制度としてゴリ押されることの歪は、果たして一体どこに向かうことになり、どういう形で帳尻合わせが行われることになるのでしょうか。
既に現行の教育制度が疲弊し切っているから、そのことの歪が一々こういうところにこういう形で出てくることになるのだと捉えたら、それはそれで正解になりそうな見方でもありますが、ともあれ。
やるとしても「勉強したい小学生にはその環境を与える、ただしあくまで任意のもので、これまで通り中学では改めて一からスタートさせる」くらいが丁度だったんじゃないかと、個人的にはそんな風に感じますが、いかがなものでしょうか。
傍から見ているものの感想としては、「つーか、よくこんなことやろうと思ったな 笑」が率直なところです。
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