【横浜観光FAQ/簡易中華街史その2】20世紀の国際情勢と横浜の”南京町”

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【横浜観光FAQ/簡易中華街史その2】20世紀の国際情勢と横浜の”南京町”

旧・中国人居留地と”横浜の南京町”

別記事にまとめました。

第二次世界大戦後の中国大陸

国民党と共産党

戦後ほどなくして華僑たちの母国・中国では、当時の中国大陸の二大勢力だった国民党と共産党が、内戦状態(第二次国共内戦、1945年~1949年)に突入します。

以下、まずは”そもそも”の部分から、ざっくりその流れを追ってみます。

国民党と共産党は、元々は中国最後の王朝・清朝に対する革命を起こした政権(辛亥革命によって成立した国民党政権)の内部にて、西欧列強や大日本帝国の中国大陸進出に対処するため、より革命を先鋭化させる必要があるとして共闘を進めていた”はず”の勢力同士でした(1924年~、第一次国共合作)。

国民党が主導する中国大陸統治に共産党勢力も助力していたという関係性ですが、双方が言うところの”革命”の中身については、それぞれまるで異なっています。

国民党が唱える”革命”は旧習の打破や国内の近代化を旨としたもの、一方で共産党が唱える”革命”は、究極的には国家権力や富裕層(ブルジョアジー)の粉砕と労働者支配(=プロレタリア独裁)を理想としたものです。

西欧の市民革命や、日本のいわゆる”明治維新”が建前として掲げた数々の政策に近い性質を持っているのは、あくまで国民党が理想とした”革命”の方であって、共産党が理想とする”革命”では、国民党が理想とする”革命のゴール”はむしろ打破すべきものに当たります。

繰り返しになりますが、同じく”革命”といったところで、中身についてはまるで別物だったんですね。

ただし時の中国大陸情勢を前提とするならば、お互いにとっての共通敵が強大であることや、お互いが共に打破しなければならない状況が難題となっていたこともまた、事実でした。

そこで、国民党にとっての共産党、共産党にとっての国民党は、本来は敵であるはずの相手であったとしても、現状を乗り切るためには手を組む必要があるとして、国民党側(孫文)が共産党員の国民党入党を認めるという形での両勢力”合作”が成立します。

もちろん”合作”下でも国民党勢力は近代化を推進し、共産党勢力は社会主義に基づく国づくりを理想としますということで、国民党と共産党の共闘は本質的に薄氷の上に乗った共闘であり、本来並び立ち得ないものが条件付きで並び立っていたのだという、極めて不安定な状態に終始しました。

リーダーの胸先三寸、あるいは構成員たちの醸す空気一つで共闘が終わってしまう危険をはらんだまま続く関係は、最終的に国民党の指導者・蒋介石による国民党内からの左派勢力・共産党員排除という形で終焉の時を迎え、以降、内戦状態へと突入します(第一次国共内戦:1927年~)。

台北政府、北京政府の誕生

本質的には敵同士、ただし状況次第では共闘することもあるという国民党・共産党両勢力は、前記したように対外勢力に対するために共闘した後、そこでの共闘関係自体が破綻をきたしたという理由から内戦状態へと突入しますが、この内戦状態は当時の大日本帝国を相手とした日中戦争の激化によって解消され、再び共闘状態が成立します(第二次国共合作:1937年~)。

日本軍と戦う以前に共産党勢力をせん滅し、中国大陸を統一することを狙っていた国民党・蒋介石が、張学良や周恩来の説得に応じる形で成立したという”合作”は、以降”国民党+共産党”vs旧日本軍という対立に姿を変えていくのですが、第二次世界大戦終結後、この対立構造が崩壊します。

日本軍が武装解除して中国大陸から撤収することとなった1945年(昭和20年)以降、元々は敵同士であった国民党・共産党が”共闘”の理由を失い、やがて再び武力衝突へと向かっていくことになるのですが(第二次国共内戦、1945年~)、最終的には1949年(昭和24年)に蒋介石率いる国民党政府が台湾へ移転し、同年北京にて共産党勢力が中華人民共和国樹立を宣言するという結論に達します。

ここに、台北政府(中華民国=台湾)、北京政府(中国共産党=中華人民共和国)という”二つの中国”が誕生することとなりました。

スターリンの死と東アジア情勢

ところで、第二次世界大戦後の東アジアに”二つの中国”が誕生し、中国大陸が中国共産党の支配下に入った1950年代。

当時の世界を真っ二つに分断していた東西冷戦に、一つの転機となる出来事が訪れます。

1953年(昭和28年)、ヨシフ・スターリン(ソ連共産党・中央委員会書記長)の死ですね。

スターリンの死後、ソ連共産党で実権を握ったニキータ・フルシチョフ(ソ連共産党・中央委員会第一書記)が穏健路線を選択して西側に歩み寄ったことに対して、毛沢東の指揮する中国共産党は”中国共産党版重商主義政策”的な色合いの濃い大躍進政策や、いわばその後始末として進められた文化大革命の時代に突入するなど、一党独裁(というよりは、毛沢東独裁)の色合いをさらに強めていきました。

一方(ソ連)が平和にやろうとしている時に、もう一方(中国共産党)が以前にも増してイケイケドンドン路線を選択するのであれば上手くいかなくなるのも必然だろう、ということで、やがて東側陣営内では中・ソ両国が対立へと向かいます。

この時代の中国(=中華人民共和国)を取り巻く国際情勢の要点をまとめると、

中・ソはそれぞれの方向性の違いによって仲違いし(1950年代~70年代)、

米・ソは深刻な対立の後に本格的な歩み寄りを始め(いわゆるデタント=緊張緩和期を経た後、1991年のソ連の崩壊によって米ソ対立は終焉します)、

中国共産党はより強硬に内政・外交を進めていく(現在も継続中です)、

といった状況が創出されることとなりました。

日本と台北政府、北京政府の関係

1951年(昭和26年)に締結したサンフランシスコ講和条約によって主権(独立)を回復した日本は、アメリカの仲介の下、翌1952年(昭和27年)に中華民国(台湾)=台北政府との間に日華平和条約を締結し、台北政府を中国として承認します。

元々主権回復と同時に(日華平和条約締結によって)台北政府を認めた日本にとって、中国共産党の北京政府は国交のない政府だったのですが、この点は相手方の中国共産党政府にしても本質的に同様の捉え方をしていて、台北政府と外交関係を持っている日本政府に対しては、激しい憤りを表明していました。

“スターリンの死”は、そんな両国間に一時的な雪解けの時を与える意味合いを持ち、民間レベルでの交流を促進することに繋がったのですが、恒常的には当時の日本政府と北京政府、日本政府と台北政府の関係は、”まずはじめに東西冷戦ありき”(かつ、アメリカが主導する西側グループの一員としての立場)が前提となったものです。

当時国際的に”中国”として承認されていた国連加盟国・中華民国(台北政府)は、台湾で蒋介石による国民党の独裁統治を進め、アメリカとのつながりも強固なものとしつつ中国共産党に対峙し続けたということもあって、中国共産党の支配する中国=中華人民共和国は、政治的にはソ連よりも遠い国となっていた”はず”でした。

ニクソン訪中と日中国交正常化

そんな状況下で突如として作られたのがいわゆる”ニクソン訪中”(1972年)、つまりはアメリカと中国共産党の歴史的な歩み寄りの機会です。

アメリカ政府は、ベトナム戦争からの撤退やアジア戦略の再考などを契機として外交戦略を見直し、結果訪中したと捉えられていますが、”歩み寄り”の動機以上に日本にとって衝撃だった点は、米・中の歩み寄りが寝耳に水だったことです。

かつて独ソ不可侵条約締結(1939年)を称して”欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた”という名言(迷言)を残し退陣した平沼騏一郎首相ではないですが、平沼首相の言うところの”複雑怪奇”の故が政治的イデオロギーの相違にあったということであれば、ニクソン訪中にしても条件は全く同じです。

環太平洋地域に複雑怪奇なる新情勢が生まれた、しかもそれを知らせる報が寝耳に水のものだった、といったところですね。

ともあれ、真意を量りかねる現実が目前に用意されたのであれば、その当事者の外交をそっくりそのままなぞらえるより他やりようがないだろうということで(?)、同年(1972年)、田中角栄政権下の日本政府は、急ぎ中国共産党相手に条約締結を望み、中国共産党側がこれに応じたことによって”国交が正常化”しました(日中平和友好条約の締結と、日中共同声明の発出)。

“ニクソン訪中”に関連する大きな国際情勢の動きとして、中国共産党の支配する中華人民共和国が国連の常任理事国となると同時に、中華民国=台湾が国連を脱退(1971年)、中華人民共和国との国交が正常化したことをもって日華平和条約が無効となり、中華民国との国交が断絶した状態がもたらされました(1972年)。

日中国交正常化後の様相

周知のように、国交が断絶したはずの台湾とは現在も民間レベルで親密な交流が続いていますが、その一方で正式な国交関係が築かれているはずの中華人民共和国との間についてはどうかといえば、幾多もの外交問題が横たわっている上、民間レベルでも”親密”な交流が用意されているとは限らないという、難しい状態が創出されています。

現在の東アジア地域が抱えている、大きな矛盾の一つですね。

ところで、現在の横浜中華街には”台湾支持派”が多い(正確には”大陸支持派”が少ない)と言われていますが、この流れを決定づけたのは横浜中華街内部での”何か”ではなく、1989年6月4日に発生した、いわゆる”六四天安門事件”です。

中国共産党が民主化運動を武力鎮圧したという事件に対しては、横浜中華街内で拮抗していた両勢力(台湾派、大陸派)が中国共産党の方針に対して一様に憤り、大陸派の華僑総会も”六四天安門事件”に対して抗議の声明文を出しています。

元々は中華人民共和国政府=中国共産党政府を支持していた勢力ですら容認できない事件が発生してしまったということで、この流れは恐らく、中国大陸の民主化が実現するまで続いていくことになるのでしょう。

総じて、政府間の関係はあくまで政府間の関係に過ぎないのだということでもあるのかもしれませんが、日本、台湾、中国の三国関係は、一つ一つを紐解いていかないとわかりづらい関係を残した状態で、今日へと至っています。

※ 中華街史について、参考:山下清海「横浜中華街」筑摩選書(2021.12.15)他

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